住宅双六の上がり❗橋本林間田園都市開発史(その2)
▼今回は、『住宅双六の上がり❗橋本林間田園都市開発史(その1)』に引き続き、南海橋本林間田園都市(以下、林間田園都市)の全貌に迫ってみようと思います。
1.南海橋本林間田園都市のはじまり
▼林間田園都市は、当初は6つのブロック(紀見A・B・C、隅田A・B・C)に分けて開発されました。まず、各ブロックの位置関係を下図でご確認ください。灰色部分は、南海電鉄とは関係のない新興住宅地です(紀ノ光台は南海電鉄が部分的に関与)。

(1)開発経緯
▼林間田園都市の構想は、1969(昭和44)年に橋本市が『長期総合計画』を策定する中で、大規模住宅地の開発を盛り込んだことにはじまります。この計画は、大阪圏のベッドタウンとして、当時3万人だった市の人口を10万人に増やすとゆうものでした(伊丹2017)。
▼この背景には、『住宅双六のゴール❗橋本林間田園都市の発達史(その1)』ですでにみたいように、昭和30年代から40年代にかけての大阪都市圏の人口増加と、それに伴う大阪都市近郊部の大規模住宅開発があります。
▼林間田園都市の開発は、1973(昭和48)年の石油危機を挟んでいます。石油危機のあと、国の住宅政策がそれまでの建設ラッシュによる投機の暴騰を抑制する方向に転換したことから、大阪府下の住宅難が深刻となって、南海電鉄はその突破口をさらなる遠地である橋本市に見出したとゆうことです。
▼中西は、林間田園都市の開発経緯を整理しています。要点は、おおむね以下の通りです(中西1979)。
- 南海電鉄は、職住近接で自己完結型のニュータウンは無理だが、整然とした街並みが理想と考えた。
- 南海電鉄が、この理想を採算化させるためには、事業規模を大きくしてスケールメリットを活かすしかなかった。そのため、広大な土地が必要となった。
- 当時の橋本市は、通勤時間がかかるため大阪府への転出者が多く高齢化していた。若者層の流出を止めるため、南海高野線複線化(河内長野―橋本間)による時間短縮を望んでいた。
- 南海電鉄は当初、この区間の複線化は投下資本を回収できないので消極的だったが、橋本市の協力を得て大規模開発ができるなら回収できると判断し、橋本市と南海電鉄の利害が一致した。
- その後、南海電鉄と市が覚書を交わし、市役所内に「橋本市住宅開発推進委員会」が設置され、用地買収交渉が始まった。また、1970(昭和45)年には和歌山県からも全面協力を得られることになった。
- 「南海橋本林間田園都市」と命名されたのは1972(昭和47)年であった。
- 許認可申請が終了し、着工直前の1975(昭和50)年に橋本市長が選挙で交代し、関連部局の担当者が総入れ替えとなって作業が約1年間中断した。
- 1976(昭和51)年秋に、紀見B地区(城山台)の宅地造成工事が始まった。
(2)南海橋本林間田園都市の全体構想
▼次に、南海電鉄が当初描いていた林間田園都市の全体構想は、おおむね以下のようなものになります(中西1979、林1980、樋口1987、中島・橋本1987、西田1991、長谷川1997)。
- 開発コンセプトは「『21世紀の子どもに新しいふるさとを』とし、美しい『みどり』と『水』、清涼な『空』に恵まれた自然環境を大切にした街づくり」であった。
- 都市を6ブロック(紀見A(現小峰台)、紀見B(現城山台)、紀見C(現三石台)、隅田A(現あやの台)、隅田B・C(現紀ノ光台))に分け、各ブロックごとに特徴のある開発を行う。
- 住宅地だけでなく、リゾート地域としての開発も進める(ゴルフ場、野球場、観光農園、ホテルなどを配置)。
- 紀見C地区に新駅を設置する。
- 新駅の駅前に流通施設、ホテル、カルチャー施設等の複合的な都市機能を整備する。
- 橋本カントリークラブに北接する地区には住宅を配置せず、文化教育施設やスポーツ・レクリエーション施設等を配置し、林間田園都市の中核とする。
- 南海高野線河内長野―橋本間の複線工事と並行して開発する。
- 新駅と各住区との間の都市計画街路上に新交通システムを導入する(のちに、輸送費がバスの約3.5倍かかることが判明しバス輸送に変更)。
- 道路は歩車分離を前提とし、都市計画街路(のちの市道三石台-垂井線(幅員19~22m))、住区内の住区幹線道路(幅員16m)、補助幹線(幅員9m)、区画道路(幅員6m)に分け、宅地の形態や施設配置等を考慮して歩車分離を図る。
- 諸施設への連絡道路として歩行者専用道路(緑道。幅員4~6m)を設け、安全快適な通勤通学ショッピング等の確保を図る。
- 公園は、地区公園、近隣公園、児童公園の3つに分け、それぞれの機能にしたがって配置する。
- 教育施設は、幼稚園(14園)、小学校(7校)、中学校(5校)、高等学校(2校)を計画配置する。
- 開発区域の中心部にタウンセンターを、新駅周辺に地区センターを、各住区に近隣センターを設け、日常生活に必要な商業その他の施設を配置する。
- 開発面積は730ha、計画人口は50,000人であった。
- 開発開始は1976(昭和51)年、28年間(2004年)で開発を完了する。
(3)そして分譲
▼林間田園都市で最初に分譲されたのは、1980(昭和55)年の城山台で、同年に早くも入居が始まっています。また、城山台は数年で分譲住宅が完売しています(中西1979、樋口1987)。
2.各住区のプロフィール
▼林間田園都市は、住区ごとに開発コンセプトや具体的な開発方法が異なります。そこで、各住区ごとのプロフィールとエピソードを整理してみます(林1980、樋口1987、中島・橋本1987、津本ら1988、堀川1994、伊丹2017)。
(1)城山台(紀見B地区)
▼プロフィールは以下の通りです。
- 開発開始年:1976(昭和51)年
- 分譲開始年もしくは入居年: 1980(昭和55)年11月
- 開発面積:106~118ha(文献により異なる)
- 計画戸数:1,700~1,817戸(文献により異なる)
- 計画人口:6,270~6,500人(文献により異なる)
- 開発コンセプトは「人間優先の歩車道分離」で、車公害の防止と歩行者専用道路のネットワークを構築した街づくりが行われた。
▼エピソードとしては、以下の内容があげられます。
- 1980(昭和55)年の初回分譲では、「住まいの会」会員を対象にした特別宅地分譲が行われ、約12倍の競争率で即日完売した(西田1991)。
- 1980(昭和55)年10月には、住宅生産振興財団と日本経済新聞社が「橋本林間田園都市住宅祭」を開催した(住宅生産振興財団1980)。
- 1981(昭和56)年時点で、既設500戸のうち250戸が入居を完了し、分譲開始後2年でほぼ完売した(紀陽銀行公務営業部1981、中島・橋本1987)。
- 1991(平成3)年時点で、1,450世帯が生活。1区画の平均面積は約60坪(西田1991)。
- 住区内の近隣センターには、南海西友城山台店が入居した(林1980、西田1991)。
- 阪本の調査(当時)によると、城山台住民の年齢層は35~40歳と7~12歳が多く、前住所は約78%が大阪府内、また堺市は全体の約33%を占めた。総じて、城山台の住民は買い物や通勤の便利さなどの環境要因を犠牲にして、自然環境の良さや広い家、庭などを求めて城山台に移ってきたと分析(阪本1986)。

(2)三石台(紀見C地区)
▼プロフィールは以下の通りです。
- 開発開始年:1978(昭和53)年もしくは1979(昭和54)年(文献により異なる)
- 分譲開始年もしくは入居年:1985(昭和60)年もしくは1987(昭和62)年(文献により異なる)
- 開発面積:79~96ha(文献により異なる)
- 計画戸数:1,800~2,050戸(文献により異なる)
- 計画人口:6,660~7,300人(文献により異なる)
- 開発コンセプトは、「都市の喧騒を離れた、やすらぎと落ち着きを与える緑豊かな街」で、住区全体が駅まで徒歩圏内という立地から「林間田園都市の顔」として、駅から家まで公園内を通って往来できる都市と自然の調和した街づくりが行われた(西田1991)。
- 1984(昭和59)年に造成が終了したが、住宅不況により分譲開始が1987(昭和62)年秋にずれ込んだ。しかし、第1次分譲は約5倍の競争率で完売した(新住宅社1990)。
- 古い造成手法のせいで現代的な環境設計思想と乖離したことから、建築家管家克子の助言を受け、三石台―駅間を緑で包む、既に完成済みの道路のアスファルトを剥がしてカーブさせる(≒ボンエルフ設計)、階段から緩いスロープにするなどの大幅変更を実施した(新住宅社1990)。
- 1989(平成2)年の第2次分譲では、2区画をぶち抜いて1区画を120坪にする、道路舗装に石を使う、植栽で変化をつけるなどして高級化を図った(新住宅社1990、西田1991)。
- 三石台―駅間の歩道に、植栽に応じて「みち公園」「ふじの木公園」「さくら道」と特色のある公園を設置した(西田1991)。
- 住区の中央に「白樫(しらかし)の路」と名付けた東西に緩く続く広い道を配置した(西田1991)。
- 他の住区とは異なり、一戸建てだけでなく中高層集合住宅(分譲)を積極的に建設した(西田1991)。
(3)小峰台(紀見A地区)
▼プロフィールは以下の通りです。
- 開発開始年:1986(昭和61)年もしくは1987(昭和62)年(文献により異なる)
- 分譲開始年もしくは入居年: 1988(昭和63)年
- 開発面積:78~83.7ha(文献により異なる)
- 計画戸数:420~500戸(文献により異なる)
- 計画人口:1,600~1,850人(文献により異なる)
- 開発コンセプトは、「南海橋本林間田園都市のセンターコア」であった。
▼エピソードとしては、以下の内容があげられます。
- 計画では、一般住宅はほとんど配置せず、図書館や文教娯楽施設、教育施設、薬草園等を配置することになっていた(紀陽銀行公務営業部1981)。
- その後、50%を住宅地(西工区)、残り50%を教育・医療・流通施設、野球場等を備えた運動公園(東工区)とした複合機能を持つ住宅地に計画変更された(樋口1987)。
- 東工区には、医学部付属病院または知名度の高い医療法人、シルバーコミュニティ施設、短大、県立規模の図書館、企業の研修センター、研究所等を誘致する計画であった(西田1991)。
(4)紀ノ光台(隅田B・C地区)
▼プロフィールは以下の通りです。
- 開発開始年:1988(昭和63)年
- 分譲開始年もしくは入居年:不明
- 開発面積:131~139ha(文献により異なる)
- 計画戸数:2,800戸
- 計画人口:10,360人
- 開発コンセプトは不明。
- 隅田B地区は、北側半分を中層集合住宅、南側半分を戸建て住宅、中央部にタウンセンターと地区公園を配置する計画であった(紀陽銀行公務営業部1981)。
- 隅田C地区は、中央部に小学校、中学校、近隣公園を配置し、一戸建てとテラスハウスを等分に配置する計画であった(紀陽銀行公務営業部1981)。
- 1982(昭和57)年に旧住宅・都市整備公団に事業が継承された(西田1991)。
- 現在は、住居部分以外は工業用地ないし準工業地域となり、隣接する小峰台東工区と合わせて「紀北橋本エコヒルズ」を形成している(和歌山県商工労働部2024)。
(5)あやの台(隅田A地区)
▼プロフィールは以下の通りです。
- 開発開始年:1988(昭和63)年、1994(平成6)年、1995(平成7)年(文献により異なる)
- 分譲開始年もしくは入居年:不明
- 開発面積:272.1~285ha(文献により異なる)
- 計画戸数:4,500~4,800戸(文献により異なる)
- 計画人口:16,000~17,760人(文献により異なる)
- 開発コンセプトは「3R(Resident―Recreation―Resort)」とし、住居、スポーツ・レクリエーション・保養機能を備えた住宅地とする計画であった(西田1991、堀川1994)。
- 現在、造成地の北部は「あやの台北部用地」として工業地域となっている。これは、手つかずで処分に困っていた南海電鉄と、工場を誘致して税収増につなげたい橋本市、和歌山県の利害が一致したことによる(和歌山県地域・自治体問題研究所2024、和歌山県商工労働部2024)。
3.初期不良問題
▼新興住宅地は、古典的なコミュニティとは異なり、あらゆる生活基盤をゼロから作りあげる必要があることから、どうしてもなんらかの不備が生じがちです。このような、新規に開発された住宅地への入居初期段階に特有の、生活面のさまざまな不備のことを「初期不良」といいます(市道2020)。初期不良は、おおむねインフラの未整備と同じ意味です。
▼市道寛也は、大阪府下の公団住宅や大規模ニュータウンで発生した初期不良問題の事例を検討しています。それは、たとえば以下のような事案です(市道2020)。
- 既存の公立小学校がすし詰め状態となり、一部の学年で二部授業を実施(公団金岡団地、1956(昭和31)年)
- 団地周辺に保育所がない(白鷺団地、1965(昭和40)年)
- 団地周辺に保育所がない(新金岡団地、1971(昭和46)年)
- 最寄り駅がなく、すし詰め状態のバスで通勤(八田荘団地、1967(昭和42)年。その後深井駅が開業)
- 通勤時間帯にバスの積み残しが発生(金岡ニュータウン、1987(昭和62)年まで。地下鉄御堂筋線延伸により解決)
- 病院や商業施設、集会所、駐車場、駐輪場がない(泉北ニュータウン、1969(昭和44)年)
4.林間田園都市駅
▼さいごに、林間田園都市駅に軽く触れておきます。
▼さきに申し上げたように、駅の開業・営業開始は1981(昭和56)年です。嫌でも目に入る、半円筒型で茶褐色の巨大屋根は錆びているのではなく、将来塗装を必要としない耐候性鋼板を使用していることによるものだそうです(中島・橋本1987)。
▼以上、林間田園都市の開発史を辿ってみました。次回は、もうひと頑張り、林間田園都市の現在を取り上げる予定です。
〔文 献〕
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