陵山古墳:わかっていること、いないこと(その1)



▼林間田園都市の次は、なんと1500年前にタイムスリップ・・・

陵山(みささぎやま)古墳は、県立橋本高校(橋本市古佐田)の西隣にある古墳です。古墳の南側に整備された公園は「丸山公園」ですし、古墳は「丸山古墳」とも呼ばれていますので、地元民には、陵山古墳が円墳であるとゆう認識があったのでしょう。今回は、この陵山古墳を深掘りしてみます。

引用)国土地理院(2025)電子国土基本図.

引用)国土地理院(2025)電子国土基本図(3D処理したもの).

↓ 写真では平面のように見えますが、実際は上の3D図にみるようにかなり起伏に富んでおり、どちらかといえば崖の上に古墳があるとゆうイメージです。
引用)末永(1961)頁番号なし.


1.まずは謝罪から・・・


▼まずは謝罪、懺悔から。管理人は、高校時代に無断で柵を越え、陵山古墳の石室を見に行ったことがあります。覚えているのは、羨道の入口がつっかえ棒で支えられていたこと、壁面に朱が塗られていたこと、そして石室の奥(=玄室)が真っ暗で見えなかったことくらいです。それ以外はよく覚えていません。とにもかくにも、申し訳ありませんでした。


2.陵山古墳のスペック


さて、陵山古墳は、これまでに1897(明治30)年、1952(昭和27)年(1953(昭和28)年とする文献もある)、1971(昭和46)年の3回にわたって発掘調査が行われています。ここでは、これらの発掘調査によって得られた陵山古墳の概要を整理します(京都大学文学部考古学研究室編1959、末永1961、坪井・岸編1970、橋本市史編さん委員会編1974、市毛1975、末永1975、安藤・中村1979境田1979、藤井1983、和歌山県史編さん委員会編1983、安藤監・梅村ほか編1984、ふるさと橋本市編集委員会編1985、河内1987、森下1987、中村1987、大野・藤井1992、黒石2003)。

(1)墳丘

▼陵山古墳は、典型的な円墳です。円墳としては大型(前方後円墳並み)で、紀ノ川流域の円墳としては最大です(河上ら1980)。
▼墳丘のスペック等は以下の通りです。
  • 標高120mの丘陵(庚申山、丸山と呼ばれる)頂上の南先端部に築造されている。
  • 墳丘の直径は46mである45mとする文献もある)。
  • 墳丘の高さは6mである7m8mとする文献もある)。
  • 墳丘は3である。
  • 墳丘2段目上部の傾斜面には、葺石として20㎝大の川原石が敷き詰められ、土砂の流出を防いでいる。
  • 一重の周濠で囲まれ、周濠の幅は6m5m7mとする文献もある)、深さ2mである
  • 墳丘に使う盛土を掘ったところを周濠として使ったとみられる。
  • 周濠の外側には外堤があり、幅は4mである6mとする文献もある)。但し、外堤は南西側に一部が残存するのみである。
  • 墳丘の頂上は、築造当初は丸かったが、後年、小さな社や忠魂碑が建立されたときに平坦化されたとみられる。
  • 墳丘の頂上には、一宮と二宮(ともに地元民が崇拝する神社)が祭祀されていたとゆう元禄時代の記録がある(一宮、二宮は現存せず、いつ撤去されたかも不明)。その後は、古佐田、橋本、妻の3字の氏神である陵山社が祀られた。
  • 南正面には、陵橋という橋が架橋されている

引用)末永(1961)pp92-93挿図を管理人が加工したもの.

(2)石室

▼次に、石室に関するスペック等は以下の通りです。

  • 横穴式石室である。
  • 入口は、墳丘第2段の高さの位置にあり、南東方向に開口している。
  • 石室は、羨道(前室)と玄室(後室)、両室を連絡する幅の狭い玄室前道通廊)からなる。
  • 羨道(前室)は、入口部分の蓋となる石材が取り除かれ、開放している。
  • 羨道(前室)は、長さ5m、幅1.5m、高さ1.6m1.8mとする文献もある)である。
  • 玄室前道(通廊)は、左右の両袖によって狭くなるが、厳密には左片袖式である(羨道と玄室の接点の構造を「袖」と呼び、その型式から両袖式、片袖式と表現する)。
  • 羨道部の天井は、5の石で覆われている。
  • 玄室前道(通廊)は、長さ1.5m2.2mとする文献もある)、幅50(幅は下部0.8m、天井部0.35mとする文献もある)、高さ80である。
  • 玄室前道(通廊)の側壁の長さは、北壁2.2m南壁2.8mである。また、幅は基底部0.8m天井部0.35mである。
  • 玄室前道(通廊)の両側は持ち送り(上にいくにしたがって、両側の割石が内側にせり出してくること)である。
  • 玄室前道(通廊)の天井は、2の平石で架構されている。
  • 羨道(前室)と玄室前道(通廊)の側壁は、結晶片岩ないし石墨千枚岩割石積みである。
  • 割石は、紀ノ川から採集されたとみられる。
  • 側壁として積み重ねられた全ての割石表面には、赤色顔料が塗布されている。
  • 羨道天井と玄室天井の高さが同じで、玄室前道(通廊)の天井が低いため、楣(ひさし)構造をなす(玄室天井は通廊よりも約35㎝高い)。
  • 羨道と玄室の床面のレベルも同じである。但し、羨道入口は床面よりも高く段状になっている。
  • 玄室は完全に土砂で埋まっている(明治の第1回発掘調査以前に既に盗掘され、天井と壁の大部分が破損・崩落しているとみられる)。
  • 玄室は、1952(昭和27)年(もしくは1953(昭和28)年)の発掘調査では、長さ2.6m、幅1.7mである(羨道よりも奥行きはやや広いとみられる)。
  • 玄室前道(通廊)から続く玄室の入口は、高さ1.8mである
  • 石棺はないが、石棺片が確かめられたとの記述がみられる。
  • 石室の外に、石碑に利用された板石が立っており、この板石は玄室前道(通廊)の閉塞に使用されたとみられる。

↓ 割石の絵は、羨道と玄室前道(通廊)を横から見た断面図で、左側が玄室、右側が羨道入口。また、その下の図は羨道と玄室前道(通廊)を上から見たもの。

引用)末永(1961pp92-93挿図を管理人が加工したもの.


↓ 羨道から玄室前道(通廊)を見たところ。奥に玄室がある。狭い玄室前道(通廊)の左側の壁面が左袖、右側が右袖となるが、構造的には左袖優位のため「左片袖式」となる。
引用)末永(1961)p94.

↓ 1952(昭和27)年(または1953(昭和28)年)の第2回発掘時の様子。墳丘頂上から玄室に向かって掘り下げたとみられる。
引用)橋本市史編さん委員会編(1974p25


3.出土品・副葬品


▼次に、出土品及び副葬品を整理します(参考文献は2と同じ。出土数が安定しないものは数を省略)。さきに申し上げたとおり、陵山古墳の発掘調査は3回行われています。このうち、明治時代に行われた第1回調査では、発掘費用を回収するために出土した副葬品を売り払う)とゆう、本末転倒なことをやらかした結果、多くの副葬品が散逸してしまったようですww


(1)埴輪

▼まず、墳丘表面から出土した埴輪の概要は以下の通りです。

  • 円筒埴輪210180本とする文献もある)が、周濠の内側・外側と墳丘の上段・中段の稜線に合わせて、計四重に一定間隔で配列(古墳1基あたりの量としては莫大)。
  • 墳丘中段の円筒列の要所に、赤色顔料が塗布された朝顔花形円筒埴輪鰭(ひれ)付き円筒埴輪が配置。
  • 円筒列の2mほど内側に、赤色顔料が塗布された大型の葢(きぬがさ)小型の盾直弧文や羽状文を丹念に彫刻した埴輪などの形象埴輪が配置。

(2)副葬品等

▼次に、副葬品等の概要は以下の通りです。
  • 硬玉製の勾玉(紫褐色)
  • 碧玉製の勾玉(碧玉製の管玉とする文献もある)
  • ガラス製の丸玉
  • ガラス製の小玉
  • 鈴(三環鈴)
  • 鉄刃 数口
  • 鉄刀(直刀) 数口
  • 鉄剣(蛇行状鉄剣を含む) 数口
  • 鉄鎗(槍のこと) 数口
  • 鉄鉾(短鉾)
  • 鉄鏃(矢じりのこと) 数本
  • 鉄斧 1
  • 鉄製頸甲(挂甲けいこう)または小札(こざね)(鎧の一部のこと) 1
  • 鉄地金銅小札
  • 佩盾(はいたて。鎧の一部のこと)
  • 須恵壺(頸壺を含む)
  • 須恵𤭯(はそう。木製注ぎ口を付けるための孔のあいた容器のこと)
  • 須恵葢杯(ふたつき。蓋のついた容器のこと)
  • 須恵器台(高坏型器台を含む)(丸底の器を載せる台のこと)
  • 土師壺
  • 土師高坏
  • 燭台蝋燭受金具
  • 砥石(に似たもの)
  • 銅鏡(2種類)

↓ 出土した葢(きぬがさ)形の形象円筒埴輪(國學院大學に現存するらしい)
引用)金谷(1962p220.

↓ 明治の第1回発掘時に出土した銅鏡。これは写真ではなく模写。
引用)橋本市史編さん委員会編(1974pp69-70.



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次回につづく・・・・



文 献

引用)金谷克己(1962)『はにわ誕生:日本古代史の周辺(ミリオン・ブックス)』講談社、p220
引用)国土地理院(2025)電子国土基本図.
引用・参考)橋本市史編さん委員会編(1974)『橋本市史.上巻』橋本市(引用p25pp69-70).
引用・参考)末永雅雄(1961)『日本の古墳』朝日新聞社(引用pp92-93挿図、p94、頁番号なし).
参考)安藤精一・中村貞史(1979)「和歌山県下の古墳について」安藤精一編『和歌山の研究.第1巻(地質・考古篇)』清文堂出版、pp235-260
参考)安藤精一監・梅村善行ほか編(1984)『文化誌日本:和歌山県』講談社.
参考)藤井保夫(1983)「古墳時代の紀伊」古代を考える会編『古代を考える 33(古代紀伊国の検討)』古代を考える会、pp1-22
参考)ふるさと橋本市編集委員会編(1985)『ふるさと橋本市』橋本市.
参考)市毛勲(1975)『朱の考古学(考古学選書;12)』雄山閣.
参考)河上邦彦・奥田豊・峯正明・中井一夫・村越直嗣・藤原学(1980)「隅田八幡神社西古墳の実測調査とその問題点」『考古学論叢:藤井祐介君追悼記念』藤井祐介君を偲ぶ会、pp245-261
参考)河内一浩(1987)「和歌山県における古墳時代中期の埴輪生産の様相」『花園史学』8pp123-129
参考)黒石哲夫(2003)「紀伊の渡来人横穴式石室からみた渡来人の動向」『日本考古学協会大会研究発表要旨.2003年度』日本考古学協会.pp78-81
参考)京都大学文学部考古学研究室編(1959)『大谷古墳』和歌山市教育委員会.
参考)森下浩行(1987)「九州横穴式石室考畿内型出現前・横穴式石室の様相」『古代学研究』115pp14-36
参考)中村浩(1987)「山城・穀塚古墳出土須恵器について東京国立博物館収蔵資料の再検討」『Museum』(東京国立博物館)431pp4-17
参考)大野嶺夫・藤井保夫(1992)『日本の古代遺跡46和歌山』保育社.
参考)境田四郎(1979)「『妻の杜を尋ねて』續貂」『帝塚山学院大学日本文学研究』10pp1-9
参考)末永雅雄(1975)『古墳の航空大観 本文』学生社.
参考)坪井清足・岸俊男編(1970)『古代の日本.第5』角川書店.
参考)和歌山県史編さん委員会編(1983)『和歌山県史.考古資料』和歌山県.

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